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聖アントニウスの誘惑 #3

 野宮とお茶をして家に帰ると、母がちょうど仕事から帰ってきたところだった。
 今日ちょっといろいろまわってきて疲れちゃった、という母に、暑かったもんね、と返しながらエリは冷蔵庫に顔を突っ込んだ。手馴れた手つきで卵を薄く焼き、麺とささみを茹で、きゅうりとトマトを切る。やるのに、と言いながらも、母はほっとした表情でテーブルにつき、冷凍の枝豆をかじりながら缶ビールをあけていた。
「そういえば、あんた上野に行ったの」
 出来あがった冷やし中華を食べながら、母がぽつりと言った。
行った、と言おうとして、エリはそれが野宮となのか父となのかを図りかね、そして自分が父と会ったことを母に告げていないことを思い出した。気まずい。
「なんで」
「パソコン」
「あ」
 野宮と上野に行くのに、パソコンでバスがいいか電車がいいかを調べたまま、放ってあったのだ。エリは仕方なく頷いた。
「うん。…行った」
「上野ね…」
「野宮と遊びに行っただけだよ」
 母の探るような言い方に、すこし腹が立つ。せっかく楽しく遊んで帰って来たのに、水を差されたような気分になった。母は頬杖をついて、少し遠い目をした。
「あの人と別れる前に、あなた上野に行ったことがあったわよね」
「そうだっけ」
エリは冷やし中華の麺をすする。
「帰ってきたら泣いて、泣いて、理由を聞いても絶対教えてくれなくて」
母は微笑み交じりにエリを見る。
「あの時、なんかあったの?」
「たいしたことじゃないよ」
 ほんとうに、今はなんでもないことに思えた。確かにいろいろあった。でも今は、野宮がいる。あの絵だって、上野だって、大好きになりそうだ。
「そう、それならいいけど」
母はあいたビールの缶の口を、ゆっくりと指でなぞった。
「そういえば昔、あの人に上野の美術館に何度も連れてかれては、好きだっていう絵を見せられたわ」
「…」
「だからかしら、なんかね。上野ってきいたら…あの人が戻って来たんじゃないかって一瞬、思っちゃった」
母の表情を見て、エリの箸が止まる。
…もしかして。
お母さん、お父さんと会いたかったの?
(じゃあ、お父さんからメールが来たこと、ちゃんと言ってたら)
 冷やし中華の味が、急にしなくなった気がした。

 エリは自分の部屋の扉を後ろ手に閉める。
 どうしよう、どうしよう。心臓が、息が苦しい。
 鞄の中で、携帯が鳴っている。ミッション・インポッシブルのテーマ。野宮からの電話だ。出なきゃ、と思ったが、体が動かない。
 呼び出し音はしばらくしてやみ、しばらくしてメールの着信音がした。
 エリはのろのろと携帯電話を手にとり、ベッドに座りこんで、メールを読んだ。

 今日は楽しかったー。
 あの絵、ほんとに好きになったよ。
 お父さんも、あの絵、ほんとに好きだったから、
 エリに見せたかったんだろうね。
 うち、エリのお父さんもなんか好きになったよ。
 会ったこともないけど。
 いいお父さんだね。

 いいお父さんだね。
 エリは心の中で野宮のメールの文章を繰り返した。胸の動悸がおさまってくる。
 机の上に置かれたものに目がとまった。さくらんぼの柄の紙包みが、セロテープで封をされたまま置かれている。上野で父にもらった、「渡したいもの」だ。
 エリは助けを求めるように、まだ震える手でセロテープをはがし、包み紙を開いた。中には、少し古ぼけて傷のついた、ピアロアのゲームソフトが入っていた。
 エリは息を呑んで、ベッドにへたり込んだ。けれどどこかで、それを予感していた気もした。パッケージを頭の上に翳す。パッケージに描かれた主人公と仲間のモンスターたちが、楽しそうにポーズをとっている。
 これが、あの、欲しくて欲しくてたまらなかった…。
(「モンスターたちといっしょに、いまこそたのしいぼうけんにたびだとう!」)
パッケージの楽しげな謳い文句にも、胸はちっとも浮き立たたない。翳した手を力なく下ろすと、エリの膝の上に小さな紙切れが落ちた。
 几帳面な、とめはねはらいを丁寧に描いた筆跡は、昔のままの父のものだった。

 エリ、

 古本屋の奥でこれを見つけたとき、
 あの日、一日、仏頂面をしてたエリのことを思い出した。
 これがエリが欲しがっていたものかと思ったら、急に、渡したくなった。
 今からでも、遅くないだろうか。

 エリはその短い文面を三回読んだ。山形の古本屋の奥で古いゲームソフトに囲まれている父の姿が思い浮かんだ。
 あの絵の聖アントニウスのように、驚いたような、すこし恐れを含んだ顔で周りを見回しているゲーム嫌いの父。その父を見下ろすように囲む、多種多様なゲームたち。父がためらいがちに棚から引き出して手に取った、ピアロア。
遅いよ。
エリは呟く。何故か、涙がこぼれてきた。
「お父さん、本体がないとゲームは遊べないんだよ。知らないの?」
 呟きは憎まれ口になる。でもそれは父には届かなかった。父は一人だった。今、ここから遠い場所にいた。
 止まらない涙を拭いながら包み紙を畳もうとして、ふとエリは目を見張る。
 包み紙の裏には、山形の住所と、一時間に一本のバスの時刻表、そしてバス停からの地図が描かれていた。

(涼しいー?)
 野宮は不安定な電波の向こうで、羨ましげに尋ねてきた。うん、と答えるエリの声をかき消そうとするように、聞きなれないエゾハルゼミの声が鳴き交わしている。
「山形ってより、ここ、山だけど」
エリは笑いながら、電話を切った。肩にかけたバッグを背負い直し、深く息を吸う。森の香気が胸の奥深くまで届いてくる。ついで息を吐き出すと、バスに揺られて固まった体の芯がほどけていく感じがした。
「よし」
エリはさくらんぼの柄の包み紙の裏に描かれた地図を確認し、振りかえる。
「もうちょっと登ろう、お母さん」
 母はエリの背後で、バス停から続く山道を呆然と見上げていた。エリはその後ろに回ると、母の背中を押すようにして、木漏れ日がまだらに落ちている山道を登り始める。
 父が聖アントニウスのような表情でこちらを振り向くのが、見える気がした。

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