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聖アントニウスの誘惑 #2

 もちろんエリは、絵のことを覚えていた。
 きっかけは、ピアロアだった。
 八年前、エリは九歳。クラス中の子どもがピアロアをやっていた。モンスターをつかまえ、仲間にして敵を倒す、というゲームだ。ゲームのパッケージや宣伝のイラストはポップで色鮮やかだった。モンスターたちのデザインもかわいいながらも未来的で、目を引いて魅力的だった。
 けれど、携帯ゲーム機や、モンスターをつかまえて戦わせるゲームを買ってほしいといったら、父はなんというだろう。
 片方の眉をちょっとだけ上げて、
「エリ、そういうものは子供を喜ばせるためだけに作られたものだ。長い目で見ると、子供にはよくないものなんだよ」
 きっとこうだ。
 それでも。
 プールの帰り道、ある友だちが、エリちゃんのお父さんとお母さん、ベッキョしてるんでしょ、と囁いてきた。そんなことないよ、とエリは反射的に嘘をついた。すごく仲良しだよ。
(でも、エリちゃんのお父さん怖い人なんだよね。ピアロアとか買ってくれないし)
 その言葉に、心がみしっと軋んだ。父は悪い人ではない。それでも母から、自分から遠ざかっていく父は、どこか怖い、と言われても仕方がない人のようにも思えた。違う、エリはそう言いたかったが、なんといえばいいのかよく分からなかった。
(お父さんにだってピアロアは買えるもの)
 小学三年生のエリは考えた。
 ピアロアはよくないゲームではない。よくある、モンスターを倒すだけのゲームではない、モンスターと仲良くなることができるゲームだ。モンスターをつかまえて、一緒に旅をして、戦っていくことができるのだ。エリは父に長い手紙を書き、荷物を取りに帰ってきていた父の鞄にそっと忍び込ませた。
 静物画の葉書に書かれた、週末上野で待ち合わせよう、という言葉が、父の返事だった。
 エリは自分の目を疑いながらも、うれしさでその葉書を何度も抱きしめ、夜はベッドのわきに置いて眠った。その週は皿洗いや新聞とりを自分からやり、朝食まで自分で作った。
 緑のあふれる上野駅の公園口で、父はエリを見下ろし、言った。
 ゲームは買わないよ。けれど、モンスターの出てくる絵なら、知っているから。
 見に行こう。その絵を見に行こう。
 そう言った。

「ピアロアにそんな思い出がねえ…」
 アイスの入っていた紙カップを潰しながら、重々しく、野宮は言った。
 それでも野宮が言うと、なんとなくのんきな感じに聞こえる。エリはだから野宮が好きだった。冗談めかして、エリは言った。
「悲惨でしょ?」
「コレジャナイ感、半端ない」
「ほんと、騙された感でいっぱいだった。黙って、並んで絵を見たんだよ、父と。へんな絵だった。たしかにモンスターがいっぱいいた。魚にまたがった小人みたいなのが、鎧を着て戦ってたり、骨みたいな頭のやつが座ってたりするの」
「油絵?」
「油絵。くっらい色の、でかい油絵」
「へー」
「父は油絵の人だから」
 エリもアイスの最後の一口を食べ終わる。甘いバニラの香りが、口の中で溶けていく。
「山形に父の絵を支援してくれるって人がいて。母はそんなんじゃ暮らしていけないって反対してたらしいんだけど」
「あー」
野宮は頷く。
「うちの兄ちゃんもアニメーターしてるけど、今の稼ぎのままじゃ結婚もできねえ、ってよくぼやいてるよ。ゲイジュツは大変なんだよ」
「そっか…」
エリはため息をつく。
「結局秋には父と母の離婚が成立したんだよね。今思うと、父は…思い出づくり、みたいなの、しときたかったんじゃないかな」
 日が傾き、少し風が出てきた。公園のベンチの上、蝉の声をバックに、さわさわと木の葉が揺れた。野宮は、うーむ、と唸り、潰したアイスの紙カップを、ごみ箱に向けて放った。紙カップはごみ箱の縁にあたり、力なく地面に落ちた。
「友だちとはどうなったん」
「わたしのほうが距離を置いちゃった。なんか、もうだめだ、って思って。それで、一人になった。小学生卒業まで、友だち、できなかった。修学旅行も先生と行動」
「うわー」
「もう、腹立って腹立って、ずっと父のせいだと思ってた。でも中学行って母が働き始めて、それから楽しいこといっぱいあったから、もう忘れたと思ってたんだけどなあ。父と上野で会ったら、いろいろ思い出しちゃった」
 エリはベンチから立ち上がり、ごみ箱のそばに落ちたアイスの紙カップを拾った。
拾った紙カップと自分の紙カップをごみ箱に放り込んだとき、野宮が背後でぽつりと呟くように言った。
「うち、その絵、見たいな」
「え?」
 エリが振り向いて聞き返すと、野宮は首筋にかかった癖っ毛をもしゃもしゃと掻きまわした。
「あーいや、うちあんま美術館とかいかないんだけど、モンスターの絵だって聞いたら、なんかさ。見てみたいって、思って」
「えー」
 エリは戸惑いを隠せずに目を見開いた。
「…つまんないと思うよ」
「いやあれだ、うちらもそろそろ進路考えなきゃいけない時期じゃない?」
「…?…うん」
「ほら、うちもさ、モンスター道を極めていっぱい描いて、一芸入試とかに生かしてもいい頃なんじゃないかって思うんだよね」
「なにそれ」
 エリは吹き出した。けれど、野宮の表情は真剣だった。エリは唇に指をあてて考える。
「…じゃあ、来週にでも…あ、明後日バイト先休みなんだ。明後日にでも、行く?」
「ほんと!」
 野宮は顔を輝かせた。子供みたいなわかりやすい表情に、エリはどこかほっとする。
「うん。ちょうどバイトもないし」
「やったー!貯金箱割ってくる!」
「あんたどんだけお金ないの」
「だって、今月欲しいまんがが八冊も出たんだもーん」
「って、全部買ったのね!」
 突っ込みながらも、エリは笑った。懐かしい匂いのする夕風がまた公園をよぎる。ふと、野宮となら、本当に楽しいかもしれない、とエリは思った。

 絵を見に行った日は、八年前のような青空だった。人を木を建物を、地面に焼き付けようとするように、太陽がぎらぎらと照りつけている。
 彫刻の並ぶコンクリート敷きの前庭を抜け、西洋美術館のチケットを買う。高校生は常設展だけなら無料ですよ、受付の人が穏やかな声で告げた。エリと野宮は学生証を出しながら、顔を見合わせる。浮いたお金で帰りにお茶が飲めそうだ。
 ガラス張りの入り口を入る。ミュージアムショップの脇を通ってホールを抜け、二階の常設展コーナーへ、ゆるやかなスロープと階段を登る。
 静まりかえった展示室に入ると、やっぱり退屈そうだな、とエリは少し後悔した。でも点々と並ぶ絵を、野宮は熱心に覗き込んでいた。エリはその後ろにくっつくようにして歩いた。野宮の向こうに、八年前の父の背中が見えるような気がする。
 展示室の奥、宗教画の並びの向こう、階段の影になった片隅に、目指す絵はあった。
ダフィット・テニールス、「聖アントニウスの誘惑」。
「うわ」
野宮が声を上げる。
「確かに、へんな絵だ」
エリはやっぱり、と肩を落とす。でも、野宮は興味を惹かれた様子で、老人のいるあたりに顔を近づける。
「誘惑ってことは、このおっさんが誘惑されてんだよね。…真面目そうなおっさんだ」
「キリスト教の聖人だよ」
エリは野宮の背後から、声を潜めて言う。
「せいじん?聖なる人?」
「自分の財産を全部貧しい人にあげて、自分は人の住んでいない場所で、一人で勉強したり、精神を高めて修業した、偉い人」
 自分の声がなぜか父を皮肉っているように聞こえる、とエリは思った。でも、野宮はそれには気づかずに、口をぽかんと開いた。
「エリすごいな」
 エリは、いや、父がそう言ってた気がするだけ、と口の中で付け加える。自分でも覚えているとは思わなかった。
「じゃあこのモンスターたちは、悪魔なんだね」
 野宮は少し顔を引いて、絵の全体を見回す。
「まだ明るい昼間だってのに、堂々と出て来てるよなあ」
 たしかに絵を囲む空の色はよく晴れた青色をしていた。記憶だともっと暗い絵だと思っていたけど、とエリは思う。
「見てよこの女。綺麗すぎると思ったら、足、が鳥だよ」
 指さす先には白いドレスの女性が描かれていた。が、確かに脚は鶏のようなかぎ爪になっている。エリは目を丸くした。
「ほんとだ。芸が細かいね」
「真面目そうだから誘惑したくなっちゃうんだろうなあ」
野宮は笑って、エリを見た。
「このおっさん、ちょっとエリっぽい」
「えっ、どこが」
「一年のときの六月さ、うちがはじめてエリに声かけたとき、エリ、こういう顔してた。『えっ、なんで自分?』みたいな顔」
「うそ」
「『気配、消してたよね?』みたいな。うち、もうおっかしくって。あんた、いるから!ここにいるから!みたいな」
エリは顔を赤くする。野宮の顔を見られない。
「そうだっけ」
「そうだよー」
「…そっか」
「でもよかったね、おっさんもさ、悪魔に誘惑されて」
「そ、そういう絵なのかな?誘惑って、いけないこと系なんじゃないの」
「いやーないね、絶対ない」
 野宮は、腕を組んで首を振る。
「だってどうみても、悪魔たちの世界のほうが楽しそうだもん」
 いいもの見ちゃった、野宮は言うと、満足そうなため息をついた。

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