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聖アントニウスの誘惑 #1

 二人は、長いこと黙っていた。
 美術館の展示室の片隅に、女の子とその父親が、距離をおいて、並んで立っている。
 二人の前には、くすんだ色の大きな油絵がかかっている。崩れかけた砦の真ん中に、白いひげをたたえた老人が座っている絵だ。
 絵の中の老人のまわりには、異様なかたちをした生き物たちがひしめいている。
 角を生やした女、耳の尖った男。毛むくじゃらの獣、卵に蝙蝠の羽が付いたような生き物。老人を覗き込んでいるもの、足元を這っているもの、空を飛んでいるもの。
 老人は祈りの形に手を組んで、その化け物たちをじっと見つめ返している。
 絵の前に立った父親は、絵を見つめたまま、ひとこと、ふたこと、女の子に語りかけた。
 女の子は絵を見ていなかった。口を引き結んで首を垂れ、じっと床を見つめている。
父親は首をめぐらせて女の子を見下ろし、しばらく、その横顔を見守った。そして、ふたたび絵に目を戻す。
 静かにもう一度口を開いて、呟く。
 この絵が好きなんだ、と。

 風が凪いでいる。
 昼下がりの学校の廊下には、熱気がむっと籠もっていた。
 窓は中庭に向かって開け放たれている。けれどもそこからはアブラゼミの声ばかりが聴こえ、風はそよとも吹き込まない。夏休みだけあって、校舎内には物音がなく、静かだ。
 エリは、通学かばんをふたつ手に下げ、廊下の壁に体重を預けながら、じりじりと目の前の扉が開くのを待っていた。生まれつき茶色い長い髪をまとめて、ポニーテールにしている。規定の長さぴったりのスカートは、今日の暑さには長すぎる気がした。ここが生徒指導室の前でなかったら、スカートで脚を扇いでしまいたいぐらいだ。
 一時間ぐらい、経ったかな。
 エリは腕時計を見る。予想に反して、まだ二十分くらいしか経っていない。ということは、あと十分は覚悟しておいてもよさそうだ。磐田のお説教は、野宮を前にするといつも、延長戦になるから。
 磐田の前でしおれている野宮を想像し、ふとエリはきのうのことを思い出した。仄暗いカフェでの、自分と父の、気づまりな対面。新幹線の乗り場へ去っていった父の、寂しそうな後姿。
 後悔が、胸の奥にぽつりと滴を落とす。
(でも、…あっちも悪い。いきなり、あんな場所に呼びつけて)
 かばんを持った手をだらりと下げて、エリは目の前の開かない扉を見つめる。
(父さん…もう山形、ついたのかな)
 東北、さくらんぼ、花笠音頭。乏しい知識では平板な想像しか浮かばない。その時、生徒指導室の扉が、がらがらと開いた。
「みや」
 エリは声をあげ、携帯を鞄に放り込んで、壁に凭れていた体を起こす。
「終わった?」
「…終わったー…」
 出てきた同級生、野宮は指導室の扉を閉めてから、肩をすくめた。疲れ切った表情。いつも盛大に天を指している癖っ毛も、心なしか元気なくへたっている。
「お疲れ」
「うんー。待っててくれたんだ…。…あーあ、なんで夏休み学校に来てまで怒られなきゃなんないんだ」
 エリは頷きながら、野宮に通学かばんを差し出す。かばんにぶら下がったたくさんのチャームが揺れた。ドラゴンや昆虫や宇宙人、小学生の男子が好きそうなチャームの数々。
「返してもらったの、それ」
「うん、なんとか。ノートも一応とってあったからさ」
 野宮は渡された通学かばんを肩にかけながら、手にしたノートでぱたぱたと自分を扇いだ。補習中に野宮が磐田に取り上げられたノートだ。
「磐田の補習で手遊びなんかするから、説教されるんだよ」
 エリの言葉に、野宮は真面目な顔で言った。
「だってラジアンとかパイとか、眠りの呪文じゃん、あれ。防御しないと」
 二人は廊下を昇降口に向かって歩きはじめる。エリは野宮のノートをちらりと見た。
「なに描いてたの」
「それがね!」
野宮は急に元気になったかと思うと、ぱらぱらとノートのページをめくってみせた。その紙面を見て、エリは思わず吹き出す。ページ一面に甲羅の溶けかけた亀のようなデザインのモンスターが描いてある。その顔は磐田にそっくりだったが、デフォルメがきいていて、どこかかわいらしくもあった。
「ばか。似すぎ」
「ドロートルを超えた?超えた?」
 野宮は大げさな口調で言って、あ、エリはピアロア知らないんだった、と舌を出して付け加えた。
 エリの胸で心臓がどきっと打った。さっき父のことを考えていたのが伝わってしまったのか、と一瞬思う。
「エリ?」
 野宮はエリの表情の変化を見てとったようだった。
「…なんでもない。ゲームに出てくるキャラ?」
「そ。べとべとくっついてくんの」
「まさに、磐田」
「うん。あー」
野宮は悪戯っぽく目を細めて自分の描いた絵を見つめた。
「こいつも泥タイプだろうなあ。泥タイプには水がきくんだよね。こんど磐田に水かけてみよっか。説教の体感温度が三度は下がるよ、きっと」
「水をかけた時点で、磐田沸騰すると思う」
エリは突っ込みながら、腕時計を見た。
「バイトまでまだ時間あるなあ。アイスでも食べて帰らない?西町交差点のコンビニ、こないだみやが言ってたCMのアイス、置いてたよ」
「おおお、さすがエリさま!」
 野宮は両手をばんざいして、エリに抱きついてくる。
「あっつい!もー」
 エリは笑って野宮を引きはがしながら、その頭をぽんぽんと叩いた。

 父に呼び出されたのは、上野駅構内のカフェだった。
「出張で、東京に来たから」
 銅のタンブラーに入ったアイスコーヒーを前に父は言う。エリと似た色素の薄い髪に、白いものが混じっている。あまり感情の見えない静かな表情は、昔と変わらない。
 冷静に考えれば父は今、山形に住んでいるのだ。これから東北新幹線で帰るのだろう。それにしても、上野だ。立ちこめる熱気や子供が走り回っている光景は、どうしても八年前の夏休みのことを思い出させて、エリの気持ちを波立たせる。父は珍しく、口ごもるようにしながら言った。
「…渡したいものがあったんだよ。この間、…その、見つけてな」
 渡したいもの?
 父はテーブルの上に小さな紙包みを置いた。包み紙は山形の住所が書かれた菓子屋のものだ。灰銀色の地に小さなさくらんぼの模様が散っている。包み紙の端はセロテープで止めてあった。包みの折り目と貼られたセロテープの端は定規をあてたようにまっすぐで、一目で父が包んだのだろう、とわかる。
 エリが包みに手を伸ばし、取ったのをみて、父は微かに表情を緩ませた。
「かあさ…修子さん、元気か」
「元気。向いてるよ、営業」
「学校はどうだ」
「普通。父さんがいなくても変わらない」
「今日は制服なんだな」
「補習があったから」
「成績、良くないのか」
「バイトしてたから、ちょっと下がってるだけ。受験までにお金ためときたいから」
 なんだか口調が尖ってしまう。わたしたちは、わたしはうまくやっている、そう言いたいだけなのに、エリの言葉は父を突き放すような言い方になった。
 そうか、と父は、アイスコーヒーの前で組んだ自分の手に視線を落とした。骨ばって繊細な、長い指。
 カフェの別の席から、子供が、ねえおとうさん、クリームソーダ飲みたい、と甘えている声がした。
「昔おまえと、上野に来たことがあったな」
 よりによって、父はエリの地雷を踏もうとする。
「そうだっけ」
 エリは父から視線を逸らした。
「絵を見に来たんだ、西洋美術館に」
「…覚えて、ない」
「なあ、エリ」
 父はゆっくりと、言葉を選ぶように言った。
「お前には、大人の都合でいろいろ、苦労をかけたよ」
「別に」
「母さんと離婚したことだけじゃない。お前からは、子供らしい楽しみみたいなものを、ずいぶん奪ってたかもしれない、と、思ったんだ」
父の声はすこし掠れている。
「その…すまなかったな、と思ってる」
 エリは父を見た。めまいのような怒りが頭をよぎった。言ってはいけない、と思ったが、ひりつくように熱くなった喉から、絞り出されるように言葉は出てしまった。
「それでも父さんは、絵をとるんでしょ」
 父は目を見開き、そしてそっと伏せた。
 アイスコーヒーに浮かんだ氷が融けて滑り落ち、タンブラーにぶつかって、からん、と虚ろな音をたてた。